高松塚古墳壁画修復作業公開

高松塚古墳壁画修復作業公開を見に明日香に行ってきました。
10分のガイダンスがあって高松塚古墳の概要、壁画保存のための修復の説明のあと修復作業を行っている現場でホンモノの壁画を見ることができました。
壁画は縦に3列、横に4個(天井を含む)を机の上に置き、温度24度、湿度50%に制御された部屋の中でカビや泥、微生物の除去をしています。見学はその修復部屋の外からガラス越しでした。
壁画は寝かせた状態で置いてあるので実際に見えるのは前列の飛鳥美人、玄武と青龍のみです。個人的には星宿を見たかったので残念でしたが、1300年以上も前に描かれた壁画が自分の目の前にあるだけで感激notes それも思った以上に極彩色が残っていること、実物の石の大きさに再び感激しました。
小さいものでも5トンある石の迫力に接すると驚きとともに単純な疑問が湧きます。
たとえば、この壮大な高松塚古墳は誰の指示で、何のために作ったのか、誰が造営したのか、石に描く技術は誰が持っていたのか。
石を切り出し、運び、極彩色の壁画を描く労力を賄う財力は誰が負担したのか。被葬者とはどんな関係があったのか?
これだけの作業を賄う財力がどの氏族にもあったとは思えないですよね。
ここからは勝手な空想になりますが、やはりあの四神は皇子クラスのため、としか思えませんし、死亡年齢から今、候補にあがっている高市、忍壁、弓削の3人の皇子のうち、あれだけの財力がバックに見えるのは高市だけかな?と。
息子の長屋王の途轍もない豪奢な暮らしぶりは立証されているし、財を賄っていたのは長屋の父である高市の実家宗像氏だし、宗像氏が交易をしていたこともわかっている。
だとしたら財を供出したのは宗像氏、と考えても妥当な気もしますが、ただ、石に絵を描く技術まで持っていたのかは考える余地があります。
学芸員さんの説明ではハイテク技術を駆使して顔料の研究も進められているとのこと、それがわかってくれば、技術面を担当した人たちの姿が見えてくるかもしれないですね♪
もし、技術面を担当した集団が財を供出できるような集団ではなかったとしたら双方の関連は如何に??
集団①と②の結びつきの中から隠れていたつながりが浮き出て、今までとは違った歴史解釈が生まれるかもしれません。

Image238_2 Image239  この写真は現在の高松塚古墳です。
最初の概要説明の中では、古墳の中の湿度は100%と言ってました。修復された壁画は元の場所に戻すことを前提としているそうですが、コンピュータ制御された湿度50%の環境で8年も作業を続けたものを元に戻すことは不可能じゃないでしょうか。
学芸員さんも先が見えないので言葉を濁していましたが、今の状態を維持できる場所で保存するしかないような。
でも、何故、あの壁画を施したのか、造営に関わった人の思い入れや被葬者のことを考えるとそれは違うようにも感じます。


この他にも入鹿の首塚を見つつ、やっぱり彼の実際の遭難場所はここじゃないか!とか、
甘樫丘と小墾田宮跡、浄御原宮跡などの近さを感じると大津京が奇異に思え、天智天皇の謎の空想に耽ったり、
飛鳥坐神社の石像に微妙な表情になりつつも古代の信仰の一端を感じたり、
と、いろいろ歴史頭を刺激された4時間だけの明日香滞在でした。

壁画公開で折が良かったのでニアミスだったブログ友達もいらっしゃいましたねscissors
いつの日か、明日香を愛してやまない方々とたくさんの妄想話をしながら史跡を見たい!と願っていますheart04

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土佐不思議紀行

2月初旬、歴史の手に誘われ土佐に行ってきました。アルバムはここにありますので良かったらご覧下さい。

土佐、そこは不思議な空間でした。
前回行った時は龍馬関連の史跡&博物館しか見なかったのであまり土佐の不思議さを感じることができませんでしたが今回はいろいろな側面が見えました。
☆長宗我部の史跡
土佐と言えば私は「山内」ではなく「長宗我部」。今回は元親、信親のお墓参りと一両具足の鎮魂へ行きました。
元親信親の墓ともみつかりにくい場所にひっそりと佇んでいる感じです。山内氏が入ってからお墓を守り続けることは至難の業だったでしょうね。人々は滅びた長宗我部に対し哀悼の念が大きかったのか、怖れが大きかったのか。
どちらにしてもこうして前支配者のお墓が現存するのは徹底的に相手を叩きのめさない日本人らしさもある?なんて思っていました。
と、言っても実際叩きのめされ、犠牲になったのは上の人達ではなく末端で戦う人達。
石丸神社の一両具足供養の碑には「山内家の入城に抵抗した一領具足273人の首は塩漬けにして大晦日に井伊直政に送られた」と書かれていますが273人の首を想像しただけでも居たたまれない気持ちになりました。
しかし、家康は何故一豊に土佐を与えたのでしょうね?
一豊を見込んだのか、潰してやる気でいたのか、他に適任者がいなかったから消極的に選んだのか。
戦国時代(戦国時代はもう終わっていた、という見方もありますが)と言う特殊性を割り引いても相撲に事寄せ集まったところを鉄砲で皆殺しにするなどやはり虐殺としか言えないと私は思います。
(さすがに種崎浜を散歩する気にはなれませんでした)
いずれにしてもこの事件を契機に一両具足の抵抗は下火になり土佐の地はたくさんの人が流した血の上に安定していく、、が、力で封じたものはいつかはまた新たなるエネルギーとなり力となる。この一両具足の大きな犠牲が土佐の人々のDNAに継がれ、明治維新の原動力になったことを思うと本当に感慨深いです。偶然の積み重ねが歴史を作るのではなくどんな出来事にも理由や遠因がある必然が作るのかな。
そして、長宗我部と言えば♪始祖は秦氏ですが元親のお墓の隣には始祖を祀った「秦神社」があります。
ここの紋、オリジナルサイズでご覧頂くとわかりやすいかと思いますが片喰なんですよね。
うーん、、、歴史読本の先代旧事本紀特集に載っている物部の紋と似ている気もするし……。もし、物部と秦がつながるなら面白いですよね。平安京のスポンサーとして藤原氏を動かしたのではないか?と思える秦氏と、一見滅びたようでも影響力は持ち続けたのでは?と推測できる物部氏はつながっているのかいないのか。
でも、長宗我部の紋が七つ酢漿草なので秦神社の紋が片喰でも不思議ないのですが、そしたら秦神社の方があとに建立したのかな?ならどうして同じ紋を使わなかったんだろ??
紋に無知なので秦神社の紋が片喰であることに何か意味があるのか、たいしたことではないのか全然わかりません。ご存知の方、ぜひコメント下さいね。

☆物部村の神社
1日目に鯨のすき焼きと鰹のたたきをおいしく頂いて2日目は物部村へ。
いざなぎ流を伝える場所で陰陽道に興味がある人は訪ねたい場所ですよね。
ここで興味をひかれたのが「小松神社」
道路の脇に「小松神社」と書かれた看板だけがたっているんです。
神社はどこにあるのか、探しながら降りていくとこんな道が続き、着いたのがここです。
「小松神社」って、名前が名前だけに平家の落人が重盛を祀ったのか?なーんて思いましたが縁起を読むとどうやら関係なかったみたい。
記帳する場所があってノートを見ていたら坂東眞砂子さんの名前を発見♪取材で訪れたのでしょうかね。あと神社名のせいか記帳している名は圧倒的に小松姓が多かったでした。全国の小松さんが訪れているのか?と思いきや住所は高知県とか香美郡とか表記が多いんです。って、ことはこの近辺の方??帰ってネットで調べてみたらどうやら小松姓が多いみたいですね。小松姓と小松神社、何か関係あるのかな?
そして物部村にはともかく神社が多い。その昔は集落ごとに神社があったのが、集落がさびれてなくなってしまい神社だけ残ったのかなぁ?
ただ、香美→「かみ」→神?で、神のおわす村が物部村だったらこれは面白くありません??
と、結局次々と謎が湧き出て収拾がつかないまま土佐旅行を終えた私でした。

PS もうひとつ忘れてました。この写真と、この写真 八咫烏でしょうか?カラスでしょうか?
3本足だったら八咫烏ですがよくわからなかったんですよね…。もし、八咫烏としたら何か意味があるのでしょうか?
神武東征?でも熊野から宇陀ですよね??ニギハヤヒが関係するのかな???ニギハヤヒと言えば物部ですよね????何故土佐に?
考えても私のあさーい知識では何もわからないのでご存知の方、ぜひメールでもコメントでも、webclapでも教えて下さい。

←何故「クエリ送信」になるのか不明ですが(;´▽`A``「webclap」としての機能は使えますのでもし、ご利用の方がいらっしゃいましたらクリックして下さいませsad

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乙巳の変前後の素朴な疑問

最近乙巳の変前後の状況について以前とは違う疑問を感じています。
本当に単純な疑問なのですがどうも頭の中でつっかえてしまって。
自分の考えていることを書いてみたら違うものが見えてくるかな?と思いアップしてみることにしました。
まず、一番目の疑問は何故、たかだか臣下が殺されただけで皇極天皇が譲位したのか?と言うこと。
それまでの大王位は生前譲位はなく死ぬまで大王位にいたんですよね。その慣例を破った理由が自分の息子が臣下を殺したから??
普通ならいくら蘇我氏が大きな権力を持っていても臣下が殺されて大王が位を譲るっておかしくないでしょうか?
この疑問のまま日本書紀を読んでいたら面白い記述がありました。
皇極2年10月12日
「蘇我臣入鹿は独断で上宮の王を廃して古人大兄を天皇にしようと企てた。」
これって面白くないですか?どう読んでも鞍作が山背大兄王を排除して古人大兄皇子を擁立しようとした、ってことですよね?
でもこの時の大王位は皇極天皇なのに何故?????
まるで空想の世界に飛んでここだけで話を組み立てて良いなら、この時の大王位は山背大兄王でここで何らかのクーデターがあり古人が勝つ、それが山背大兄王粛清につながっていく気がしてなりません。
そうなると乙巳の変で大王位を追われたのは古人の可能性もあり、またそれが古人粛清に発展していく。そして中大兄皇子は古人の娘倭姫王を娶る。歴史の中では滅ぼした側が滅ぼされた側の娘を娶り財と血統を維持したり正統性をアピールすることはよくある話ですよね。
こう考えていくと上宮大娘が怒った記事とも整合性がとれ案外歴史の流れの中ではマッチしている気もするのですが問題になってくるのが皇極天皇は即位したのか?ですよね。逃げ道を作れば巫女として祭祀の中心だった=大王だった、にすり変えてしまったとも考えられますがここはもっと日本書紀を読み込んでいかないとまるでわかりません。いろいろ考えていくと皇極天皇ばかりでなく田村皇子(舒明天皇)まで話が発展していくのでいろいろな可能性(もしかしたらまだ倭の大王家は統一されていなかった??まで含めて)と空想を楽しみたいです♪

次の疑問は日本書紀皇極2年10月6日の記述。
「蘇我大臣蝦夷は病のため登朝しなかった。ひそかに紫冠を子の入鹿に授けて大臣の位になぞらえた。またその弟をよんで物部大臣といった。大臣の祖母は物部弓削大連のの妹である。母方の財力によって世に勢威を張ったのである。」
これは蘇我が如何に悪党であることを強調した記述だと思うのですが、鞍作の弟である物部の大臣ってどこへ行ってしまったのでしょう?
一族の柱とも言うべき子供を殺されたのに蝦夷が戦わずして自殺したことは不思議だったのですが、まぁ、これも相次ぐ裏切りと老齢のため、と思えば自分を無理に納得させることもできたのですが「物部大臣」がいたなら何故戦わなかった??と思いません?
それも日本書紀にはっきりと蘇我は物部の財産を背景に権力をふるった、って明記しているのですから軍資金もあるし、要塞のような邸を作っていたことも書かれているのだから守れないってこともないと思うのですが…。
要は蘇我氏の基盤に物部も含まれていたなら簡単にギブアップするとは思えないんですよね~。
と、書いておいて、じゃ、どういうことなの?と聞かれると思考がまとまっていないのですが、もしかしたら三韓の調に事寄せて鞍作を暗殺した乙巳の変自体が違う形であったことも考えられるのかな?
当時の半島情勢を考えて、三国揃って倭に使者を送ることが可能だったのかなぁ?とか、飛鳥寺(法興寺)に入鹿首塚があることと関係あるのかなぁ?(鞍作暗殺現場は実は法興寺だった?は暴論でしょうか?)の疑問が蝦夷が戦わなかったこととリンクしているような気もしています。
(この記事は物部氏を考える手がかりにもなりますよね。守屋の死=物部氏滅亡の捉え方は短絡的過ぎると思う私。)

あと、もうひとつ気になるのが法興寺の記述。
ここは蘇我氏の氏寺だから乙巳の変後即中大兄側が軍事面と蘇我への心理的圧力から抑えたんだと思いますが2人の運命の出会いとなった蹴鞠の舞台が同じ場所です。
日本書紀の記述によると皇極3年1月1日
「たまたま中大兄が法興寺の槻の木の下で蹴鞠の催しをされた時の仲間に加わって、中大兄の皮靴が蹴られた鞠と一緒にぬげ落ちたのを拾って、両手に捧げ進み、跪いて恭しくたてまつった。中大兄もこれに対して跪き恭しくうけとられた。これから親しみ合われ、一緒に心中を明かしあってかくすところがなかった。」
中大兄の記述は舒明天皇の殯の時誄をしたのが初めてでこの時は「開別皇子」と記されていますが次に出てきたのがこの蹴鞠の時で以降「中大兄」と記されています。
この蹴鞠を契機に彼がいつのまにか「大兄」になっていることに違和感を感じません?
先程も書いたように重要な蘇我の拠点で中大兄が主催の蹴鞠の会を開催する……こんなことが当時出来たのか?はわからないのですが明日香から離れた談山神社まで行かなくては密談も出来ない状況のはずなのに不思議です。
これももしかしたら「大兄」と認識できるきっかけとなった何らかの出来事を暗示している記述なのかもしれない?と思うのですがまありにも中略みたいな書き方でまるで見当がつきません。
が、日本書紀の記述をそのまま受け入れるにはどうも引っかかってしまいます。

と、何の足しにもならないことを考えてはまた日本書紀を読み直し、また考えるの繰り返しです。
何度読んでもその時自分の興味を持っていることで新たな疑問が湧いたり、違う解釈を思いついたり。
続日本紀も面白いですがまだわかりやすいですよね。
これだけいろいろな考え方ができる面白い書物はないな、と思う次第です。

追記
日々の生活に追われて更新が滞り申し訳ありません。
どんな時でも歴史の不思議に思いを馳せることが私の一番のストレス解消なのでこれからもその楽しみを少しづつ表現していけたら!と思っています。
どうぞよろしくお願い申し上げます。

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薬師寺展

200805172050000_2  やっと念願の薬師寺展に行ってきました。混むだろうと予測して朝一番で入場しましたが案の定、出てきたときは入場制限がかかる混雑ぶりでした。
私のお目当ては大津皇子がモデル?とも言われている聖観音像でしたがもう言葉にできないくらい感動しました。「観」とは心の目で見ること、心で感じること、と言いますがあまりにも姿が美しくて見惚れてしまいました。
(思わず手を合わせた私の前で「この仏像はメタボじゃないわね」なんて大きな声で笑っている人がいてムッとしましたが(怒))
結局一回りしたあともう一度見に行きましたが何度見てもそのお姿には心が和みます。
今回の展示の目玉は聖観音も日光・月光菩薩も全角度から見られることでしたが私もゆっくり全角度から堪能してきました。
もちろん日光・月光菩薩にも手を合わせましたが拝んでいる人が少なかったのはどうしてでしょうね。展示会だからかなぁ?

☆薬師寺展を見ての素朴な疑問
①聖観音を安置する東院堂は吉備内親王が元明天皇のために建立したと言われていますが何で姉の元正天皇ではなく吉備内親王なのでしょう?たとえば建立には財を必要とし天皇家では難しかったとか?長屋王の贅沢な暮らしぶりは有名ですが建立の実質の手助けは長屋王がしたので吉備内親王なのかな?→何故藤原氏が元正天皇の意向を汲んで建立しなかったのか?→元明天皇&元正天皇と藤原氏の関係は蜜月関係だったのか?まで空想の世界にすっ飛んでしまいました。
②今の疑問とリンクしますが薬師寺展にはたくさんの瓦が展示されていました。
この多数の瓦を実際に作ったのは誰でしょう?実際の作業にあたったのはどの氏族なのか?指揮したのは誰なのか?建設ラッシュの平城京で技術軍団は大きな武器だったと思うんですよね。そういうことがわかれば続日本紀一辺倒ではない奈良時代が見えてくるような気がするのですが……。もしかしたら私達が思うより長屋王の力が大きかったのかもしれないとか、不比等を過大評価していないか?とか「モノ」など違う角度から歴史を見れたら面白いだろうな、などと考えていました。
③薬師寺は本当に移築されたの?
藤原京に建立され、平城京遷都と共に移築された薬師寺ですが現地を見ても、瓦などを見ても、②の疑問を踏まえ移築か新築かは興味が湧きます。うまく書けませんがこういうことの裏側に大切なことが隠れているような。移築を藤原氏が担当してやり遂げたならスゴイな、なんて思っていたのですが実際はどうなのでしょうね。

などなどいろいろ書いてもともかく、聖観音を見られたことが嬉しかった私でした♪

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豊臣最後の直系 奈阿姫

昨日5月8日は旧暦だと大坂夏の陣が終結した日です。
ホントは8日に合わせてアップしたかったのですが遅ればせですみません。
彼女のことを知ったのは大学時代、私は社会福祉学科の学生でしたが「歴史の中で福祉に貢献した女性」の講義の時でした。
豊臣の女性と言えば茶々や千姫が有名ですがこんな女性もいたよ、と言うことで「奈阿姫」です。

大坂夏の陣で母茶々と一緒に自害した豊臣秀頼。正妻は千姫ですが側室小石の方との間に生まれたのが奈阿姫です。
1609年に生まれたので夏の陣の時はまだ7歳。彼女には母親違いの1歳上のお兄さん豊臣国松がいますが夏の陣の折り、一旦城を落ち延びたものの見つかってしまい市中引き回しのうえ斬首にされます。享年8歳……戦国の世のならいとは言え悲しい話ですよね。
彼女は豊臣の血を受け継ぐ身なので徳川の中では生きることを許さない考えが大勢でしたが千姫の必死の説得により出家して子を残さないことを条件とし生を許されました。
千姫と一緒に1年の時を過ごして後、彼女は東慶寺に尼として入りますが、「何か願いはないか?」の家康の質問に「東慶寺の女性救済が強固に、永遠に続きますように」と答えたと伝わっています。(8歳の女の子にそんなことが言えるのかはちょっと疑問も残ります)
彼女は「天秀尼」として女性を守る、今の言葉に直すなら福祉に生き東慶寺中興の大和尚と呼ばれ37歳でこの世を去り、その死をもって豊臣の直系は途絶えます。(「秀」の字は父親の1字でしょうか?よく徳川が許したな、と思いません?)
自分に与えられた悲しい運命を悲観することなく弱い立場の女性を守り福祉に生きた女性、と教わったのですが歴史を好きになった今ではちょっと違う見方もあります。
他の時代を見ていると大体前組織の生き残り(敗者側)の女性は正当性の主張や滅ぼされた人たちへの慰撫のためなどに勝者側に組み入れられるケースが多いのに彼女は珍しいですよね。(見せしめや財産の乗っ取りなどマイナスの意図もありますが……)
江与がいたのでそれで良かった?とも思いますが彼女は織田と浅井の血。
徳川には豊臣の血など必要ないくらい安泰だったのか、家康が秀吉を認めていなかったのか、織田の血の方が重要だと思ったのか。
もっと空想を働かせてしまえばもしかしたら秀頼と秀吉の親子関係がないことを徳川はわかっていた?なんてこともあるかもしれないですね。
何故、彼女が取り込まれもせず、殺されもせず、治外法権と言っても良い場所の象徴となったのかもう少し考えてみると違う歴史の側面も見えてくるのかもしれません。

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大派皇子って?

日本書紀の中で動静がわからない皇子はたくさんいますがこの記事で書く「大派皇子」も重要人物だと思うのですが記載は2箇所にしかありません。

・舒明8年秋7月1日、大派王(敏達天皇の皇子)が蝦夷大臣に語って「群卿や百寮が、朝廷への出仕をなまけている。今後は卯の時の始めに出仕し、巳の時の後に退出させよう。鐘で時刻を知らせるように」といわれた。しかし大臣は賛成しなかった。
・皇極元年12月13日、初めて舒明天皇の喪葬の礼を行った。この日小徳巨勢臣徳太が大派皇子(敏達天皇の皇子)に代わって誄をよんだ。次に小徳粟田臣細目が、軽皇子に代わって誄をよんだ。次に小徳大伴連馬飼が、大臣に代わって誄をよんだ。

この二つの記事からは大派皇子の地位の高さが垣間見えます。
日本書紀の記述からすると当時の蝦夷大臣の権力は相当ですよね。
その蝦夷に意見できる皇子がいることがまず驚きです。
そして舒明天皇の葬儀では軽皇子や蝦夷に先立ちいの一番に誄をよんでいる。これは当時の中で形的には大王に次ぐ地位であるととっても構わないと思うのですがそれだけの地位と推察される皇子にも関わらず死亡記事もなくあとは正史には顔を出しません。

と、ここからあとはまったくの推論で話を展開するしかありませんが、古代でその人物を考えるうえで大切なのが血統です。特に皇子は母方の血が重要視されますが大派皇子の母は春日老女子(薬君娘)です。同母兄弟には難波皇子、春日皇子、桑田皇女がいます。難波皇子は子が大俣王→栗隈王→美努王ですが美努王は藤原不比等の再婚相手の県犬養三千代の前夫で2人の間には葛城王、佐為王、牟漏女王を儲け難波皇子は橘氏の始祖になります。が、この難波皇子も蘇我物部戦争で蘇我軍に加わっているものの動静が不明でその後の記述もありません。一説では日本書紀に記載されている大派皇子の記事が大俣王の誤りではないか?の説もありますが真偽は定かでありません。
大派皇子の母方は春日氏、春日氏の氏神は春日神、春日神社は春日氏の氏寺であったのに平城京遷都と同時に不比等が藤原氏の氏神鹿島神(武甕槌命)を春日の御蓋山に遷して祀った。
現在摂社のひとつである榎本神社の祭神が地主神で元からこの地を治めていた春日氏が祀っていた、とされていますが藤原氏に奪われてしまった感がするのは現代人の感覚でしょうか?
舒明・皇極時代には高い地位を占めていたと思われる大派皇子の記録が日本書紀から消えていることと併せ考えると何か違和感があるのですが少ない記事で想像しようとしてもここで止まってしまいます。
皇子の記録は作為的に抜かれたのか?単純に記録に載らなかっただけか?思考を変えて誰かのエピソードを大派皇子にすげ替えたか?他の皇子と大派皇子が同一人物なのか?これだけの有力な皇子が何故舒明天皇亡き後の大王候補にならなかったのか?作為的に記録の書き換えがあったとすると藤原氏と関係があるのか?春日大社と関連性はあるのか?
系図を見ていると同じ敏達天皇の息子である押坂彦人大兄皇子も多くの謎に包まれていますが、それよりこの系図の要である敏達の母の石姫を娶ることにより大王になったと思う欽明天皇って??まで空想の輪が広がっていきます。

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大伴長徳

大伴長徳は飛鳥時代のキーマンにもなる人、と思っていますがあまり有名人ではありません。
別名大伴馬飼(馬養)の方がピンとくるでしょうか?壬申の乱で大活躍をした馬来田・吹負の父親でこの家系は旅人、家持とつながっていきます。

長徳が最初に日本書紀に登場するのは舒明4年です。
(日本書紀の記述は講談社学術文庫宇治谷孟著日本書紀から拾っています。)
冬10月4日、唐の使者高表仁らが難波津に泊まった。大伴連馬養を遣わして江口に迎えさせた。
これは遣唐使受け入れのお礼のようなものだと思いますのでかなり大役です。
次に出てくるのが皇極元年12月13日舒明天皇の葬送の礼を行っていますがこの時大臣蘇我蝦夷に代わり誄をよんだのが長徳です。これも長徳の時の政権での地位の高さを想像できますよね。ちなみにこの時大派皇子に代わったのが巨勢徳太です。
そして孝徳天皇即位の式(古人大兄皇子で経過を書いています。)では金の矢入れをつけて壇の右に立ち、とどめのように蘇我倉山田石川麻呂が抹殺された事件の後には空位となった右大臣に就任、大紫に叙任され、白雉2年に亡くなっています。

と、ここまで長徳の日本書紀の足跡を書いてきましたが読まれてどう感じますか?
大伴は金村の失脚以来重職からは外されていた。大伴復権を果たしたのがこの長徳でそれに実をつけたのが息子の2人ですが、どうやって彼は復権を果たしたのでしょう?
前半を見ると高表仁の饗応や蝦夷に代わって誄をしたことからやはり当時の最高権力者蘇我の後ろ盾があった、と見ることができますよね。
しかし、その後は孝徳天皇の即位の記述、石川麻呂後の右大臣の就任を見るとどこからか軸足を変えたような気がします。
彼が蘇我から変えた軸足の方向を考えるときキーワードになるのが彼の妹の智仙娘です。
この妹は彼が軸足を変えた?と思える頃に重要な役割を果たしているある人物の父と婚姻しています。
父、中臣御食子に母、大伴氏智仙娘生まれた息子は中臣鎌足……。
ここからは想像の話になりますが彼はどこからか鎌足に軸足を変えたと見るのが妥当ですが、新たなる軸足との同盟関係の表現が山背襲撃事件だったのではないか?と思っています。
ただ日本書紀には「ある本には巨勢徳太臣・倭馬飼首を軍の将軍とした。」と書いていますが、倭馬飼首が長徳を指すのかはわかりません。(誰なのか調べていますが現時点ではよくわかりません。ご存知の方がいましたら教えて下さい。)
もし、この考え方の可能性があるとしたら日本書紀に書かれている山背大兄襲撃の記述は怪しげになってきますよね。
はっきりと主語を「蘇我入鹿は」と記載していますから。
あとで記述を変えたのか、入鹿が主犯と認識できるように陰謀をめぐらしたのかはわかりませんが事件後の蝦夷の台詞「入鹿の大馬鹿もの」を信じるならば「はめられた」可能性が高いのかもしれません。
pleさんブログ 古代史オヤジの独り言 その3 でも書かれていますがどうも蘇我入鹿暗殺と山背大兄王襲撃は密接に絡み合っている気がしてならない私。
最近ではその扇の要に軽皇子(孝徳天皇)を持ってくる説が多いですが軽で巨勢徳太や大伴長徳と繋がるのか?の疑問も抜けません。
鎌足や軽皇子の動静はもちろんですが長徳や徳太など脇役と言うか協力者も研究していくことが違う史実を考える手がかりになるのかもしれません。

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鹿島のへびつかい媛記

「へびつかいの媛よ。そなたはそれで良いのか」
 ――はい。私は父や母、乗っ取られた一族の仇を討ちたいのです。どうぞ私を少しでも哀れんで下さるなら元の姿にお戻し下さい。
 しかしそなたが人間の姿になれるのは1ヶ月だけじゃ。そのあとは蛇に戻ることもできず、死ぬこともできず、無限の生を生きなくてはならないのだぞ。それがどれほどの辛さかわかっておるのか。
 ――わかっています。それでも構いませぬ。あの男の一族に死を。我が一族を騙り繁栄するあの一族に永遠の暗黒を。

 まばゆいばかりの一閃の光がゆらめき鹿島の蛇は消えた。

 729年2月10日、平城京、新田部皇子邸。
 皇子は藤原麻呂の訪問を受けた。彼は自分と母方の血で繋がるこの弟をずっと憎んでいた。
 幼い頃、父と母は仲睦まじかった。彼は父の一番最後に出来た息子で幼い時から目の中に入れても痛くないほどにかわいがられた。人々は「皇子様は父上によく似ていられます。」と、口々に言った。いつか父上のような人になることが夢だった。しかしかわいがってくれた父は幼い時に死んだ。
 あと十年早く生まれていたら吾は父上にいろいろなことを教えてもらえたのに……。
 父の死から運命は変わった。多感な少年期に母はあろうことか他の男のものとなり子を生んだ。
 ……何て汚らわしい。父上の妻である誇りを忘れ臣下の、それも自分の兄に身をまかせるなど言語道断だ。もう我が母とは思うまい。
 吾は心を決め、母と、母を貶めた藤原不比等と、その息子藤原麻呂を軽蔑して生きることにした。だが、母は数年でたかが臣下の男に捨てられた。馬鹿な女、と軽蔑した母はいつも泣いている憐れな女になった。

「麻呂殿。夜分に何用か。」
 吾は六衛府の兵が長屋王邸を囲んだのを知っていて尋ねた。五衛府は我が指揮下にある、にも関わらず自分には何も知らせがないままに兵が動いた。自分以外に五衛府を動かせるのは……。
「帝の勅を伝えに参りました。」
 左大臣長屋王、左道を学び国を傾けようとしている。三関を固め、王の邸を囲むように。
 ……やはりそういうことだったか。
「賜った。」
 顔を見るのも嫌なその男はそそくさと引き上げていった。

 吾は気持ちが高ぶっていた。荒ぶる気持ちのままに1ヶ月前に妾とした女を抱く。この女は氏素性はわからないがよく尽してくれるし神秘的なまでに美しい。閨では激しいがどんなに燃えたあとでも肌が火照らずひんやりと冷たい不思議な女性で吾は夢中になっていた。
 皇子様。明日は五衛府の兵を動かし長屋王邸を囲むとか。
 何故それを知っているのだ?
 私は過去も、未来も、何でも知っています。明日皇子様が囲むのは長屋王様の邸ではなく藤原武智麻呂ら4人の兄弟の邸だと言うことも。
 吾は驚き、咳き込んだ。
 五衛府の督のうち4人までは必ず皇子様にお味方下さるでしょう。4つの邸を囲むのは簡単なことです。
 ……確かに4人の督は日頃より懇意にしている。
 今から太上天皇の元へ行きなされ。そして藤原の者は上皇の御妹である吉備内親王と皇位継承者であるその子を葬ろうとしている、と、告げ勅を頂くのです。太上天皇への取り次ぎは私におまかせ下さい。
 そなたに? そなたに何故そんなことができるのか?
 ホホ、私は蛇…… 何でもできます。
 蛇?
 明日こそあなた様は積年の恨みを晴らし藤原を倒す時です。藤原の者は今は長屋王と吉備内親王、その子達を葬ることしか考えておりませぬ。この機に乗じて藤原を討てば今まで藤原に反感を抱きし者もあなた様につくことでしょう。憎き者を倒す二度とない好機。
 しかし帝の勅は発せられているのだ。従わなければ反逆罪だ。
 勅など藤原の者がいなくなればまた新しく出して頂けば良いことではありませぬか。後に問題にならないように太上天皇の勅も頂くのですから大丈夫にございます。よくお考え下さい。あなた様は仇をとったうえに若い帝の後見として君臨し権力をその手に掴むことができるのです。
 ……しかし。吾には決心がつかなかった。つかないままに時間が流れていく。
 皇子様。ひとつ申し上げねばならない未来があります。今、あなた様が藤原の息の根を止めないとあなた様のお子、塩焼王と道祖王に災いが及び藤原に殺されます。それでも構わないのですか? 早く勇気を持ってご決断下さい。もう夜が明けてしまいます。
 そのようなこと、それは本当なのか?
 はい。私をお信じ下さいませ。
 ……吾はしばらく考えこんでいた。憎しみのために成功するかわからない危険な賭けに賭けるのか? もし失敗したらそれこそ息子の命はない。それにあの虫の好かない長屋王を助けることになる。確かに太上天皇に恩を売る良い機会ではあるが……。だが、今でも吾は一品の親王だ。危険を冒さなければ藤原の者が吾や子を殺められるはずがない。そうだ、吾は偉大なる父王の息子なのだ。憎しみの感情は捨てろ。
 吾は明日長屋王の邸を囲む。
 馬鹿な……。おまえのような腰抜けに賭けた私が愚かだった。

 言い終るやいなや一閃の光が女を貫き跡形もなく消えた。
 次の日、吾は長屋王邸を囲み長屋王は滅び、吉備内親王もその子らも死んだ。吾も、息子達も生き残ったのだから腰抜け、と言われようとこれで良かったのだ。

 735年9月30日新田部皇子邸
「おーい、藤原仲麻呂と組んで天皇を騙った塩焼王を見つけたぞ。」
「殺せ!殺すように命令が出ている!」
「道祖王、いや、麻度井! 反乱を起こすなど大それたことを! 白状せい、まだ杖で打たれたいか!」
「おのれ! 藤原永手!」
 2人の息子が藤原の子孫により殺される寸前に夢から醒めた。これが我が息子の行く末なのか……。あの時に蛇の女の言うように行動を起こさなかったことの報いなのか。
 ――新田部皇子よ、あの世で子らの最後を見守るが良い!
 待ってくれ! 時間をあの日に戻してくれ!! 吾は太上天皇に拝謁を求め藤原の邸を囲む!!
 吾は激しい後悔の中で息子らに看取られ息を引き取った。

 へびつかいの媛、そなたが命を賭けたのに何も変わらなかったの。そしてそなたはこのようなところに、このような身で生きなくてはならぬ。
 ――良いのです。私はあの男の神社に蛇として石に閉じ込められましたが、父祖の地に戻りこうして移り変わりを見ることができるのですから。
 へびつかいの媛は穏やかな日差しが注ぎこむ祠の中で微笑んだ。

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追記:鹿島の鎌足神社の蛇から勝手に想像しました。何となく写真を眺めていると蛇が悲しげに見えません?
(大きめの写真はここです。)

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天皇を形骸化した事件☆承和の変

藤原氏の隆盛は1人によって作られたのではなく、何人もの人がその時代別に役割を果たしたことにある、と思います。
鎌足だけでなく、不比等だけでなく、4兄弟だけでなく、雄田麻呂だけでない。
(自分的にはこの中に仲麻呂も入れたいですが♪仲麻呂がいなかったら吉備真備や橘氏を抑えられなかったと思うし天武系排除もままならなかった、彼は彼の役割を果たしていると、思う私。)
天皇を形だけのものにし、その後の貴族政治のレールを敷いた恒貞親王廃太子「承和の変」を。

恒貞親王の父は淳和天皇(父:桓武天皇・母藤原百川娘旅子)、母は正子内親王(父:嵯峨天皇・母:橘嘉智子)です。
この話しをする時にはこの時代の皇統を継いだ順番を書かないといけないのでちょっとややこしいですがしばしお付き合いのほどを♪
第52代嵯峨天皇は自分の後継に息子を指名せず桓武天皇の息子である淳和天皇を皇太子に立てます。
そして淳和天皇の次は仁明天皇となりますがこの方は父が嵯峨天皇、母は橘嘉智子でまたまた親子間の相続ではないわけですね。
仁明天皇の次はやはり息子道康親王が(母は北家藤原冬嗣の娘順子)いるにも関わらず親子間相続はしないで淳和天皇の息子である恒貞親王を皇太子にたてます。
(やっとここで恒貞親王が登場です♪)
52代嵯峨天皇(桓武の息子)→53代淳和天皇(桓武の息子)→54代仁明天皇(嵯峨の息子)→55代予定恒貞親王(淳和の息子)で、皇統は桓武の息子嵯峨系と淳和系が順番で相続することがルールとなっていました。
この相続ルールができたのは嵯峨天皇が家長的に王権を維持していたからで奈良時代や平安時代初期に続いたゴタゴタは鳴りを潜め、政治も、皇位継承も30年近く安定しています。
(余談になってしまう&歴史にifがないことは重々承知していますが、もし、天武天皇が生前に譲位をして相続のルールを作っていたら天武系の皇統が途絶えることはなかった?なんてちょっと空想の世界に入ってしまいます。)
ところが、ここで本日の悪の主役藤原良房が登場。
良房は妹順子の産んだ道康親王の皇太子擁立を画策し、その動きを知った恒貞親王は仁明天皇に度々皇太子辞退を申し入れますが父淳和上皇と嵯峨上皇により慰留されます。
そんな中、皇太子の父である淳和上皇が死去。2年後には嵯峨上皇が死の病にかかります。
皇太子の身に危険を感じた伴健岑、橘逸勢(藤原氏の対立軸は大伴氏が多いですね…。)は東国に逃そうと画策し、平城天皇の息子の阿保親王に相談します。
ところが阿保親王は嵯峨上皇皇后の橘嘉智子に事の次第を知らせる手紙を送る、、嘉智子はこれを良房に伝え仁明天皇に伝奏します。(嘉智子は娘正子の産んだ子供、彼女から見れば孫を裏切ったことになるんですよね…。正子内親王は母をひどく恨んだと伝わっています。)
そして嵯峨上皇が息を引き取った2日後に仁明天皇は伴健岑、橘逸勢らを謀反として逮捕、皇太子は辞意を表すものの罪はないと慰留されますが1週間後に廃太子を宣告されます。
(彼は出家して嵯峨天皇の離宮で大覚寺の始祖となります。余談ですが彼は陽成天皇の退位後、また即位を要請されますがこれも固く辞退しています。数奇な運命ですよね。)
変のあと道康親王が立太子し文徳天皇として即位し、空位となった皇太子には生後9ヶ月の良房の娘明子の産んだ乳児を立太子させます。この時点でもう「皇太子」の地位は形骸化されていますよね。
文徳天皇が31歳で崩御の後は(折りしも第一皇子の惟喬親王の立太子を条件に明子の産んだ惟仁親王への譲位を画策した時期だったので、良房による暗殺説があります。「徳」の字が入る天皇は恨みをもって亡くなった天皇、ってどなたか書いていたような気がしますが文徳も藤原氏に恨みがあるでしょうか?)まだ9歳の皇太子、清和天皇が即位します。
日本史上これまで9歳の天皇の即位などありえません。即位させたい後継者が年少の場合は中継ぎを立て成長を待つのが慣例でしたから…。
飛鳥時代までは息子の成長を待つために母や皇后が即位していましたよね。その中継ぎさえいらない、、これは皇太子ばかりではなくとうとう天皇自体も形骸化したことの裏返しですね。
桓武天皇、嵯峨天皇により安定した時代は終わりを迎え貴族政治(摂関政治)の時代に移行します。
この「承和の変」は時代を変える呼び水になった分岐点と言えるのかもしれません。
これから時代は貴族政治、摂関政治へ舵をきり、それと同時に桓武天皇擁立に功があった式家の藤原吉野を左遷幽閉することで断ち切り北家全盛期へ導いた事件でもあります。

☆話は関係ないですが☆
先般図書館で「利根川流域の製鉄遺跡」の本を見つけました♪
見事に利根川沿いに新潟、群馬県境から埼玉、茨城を通り千葉へ遺跡があるんですね。
でもまだ蝦夷征伐のため拠点としたところや、タタラ遺跡と判断できない場所もあるようなのでこれからの調査次第で面白い事象が出てくるかもしれません。
関東の太平洋岸には鹿島から五浦(五浦は今でも砂鉄の文様が見られるとか!)、福島県原町まで大量の砂鉄が堆積し、産鉄の民が開いた土地と言われています。
原町たたら製鉄遺跡群の写真も載っていましたがここは面白いですね~。もっともっと製鉄民族の歴史が理解できるようになったら歴史への理解が深まるかもしれない♪
山の奥深くに入った産鉄民。日本各地に残る鬼伝説。河童伝説(馬も入れなくちゃ!あと河童が征服された古代の製鉄民ならば蛇も同じ立場?は鎌足神社の蛇以来の引っかかりです。)。そして渡来人。
どんなつながりがあるのでしょうね^^ワクワク!

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鹿島神宮&鎌足神社へGO♪

「鎌足は常陸の生まれであって、氏神の天児屋根命を鹿島に鎮座した。元明天皇のときに、鹿島は遠いから大和に遷座して、春日明神と名づけた。」と、大鏡には書かれています。
せっかく同じ関東で近いので小春日和の良き日に鹿島神宮に行ってきました。
電車で行くと利根川を越え千葉から茨城へ入りますが燦々と降り注ぐ日差しに川が眩しかった♪
そして北利根川と北浦を越えると鹿島神宮駅に到着します。
鹿島神宮から海岸線は3キロほどなんですよね。
浦と海に囲まれた町、鹿島。
「砂鉄の産地」「鉄と製鉄技術を持つ渡来人の集団」がここに住んでいたことは間違えないのでしょうね。
そう言えば「鎌子」「鎌足」どちらにしても「鎌」の字がつきこれも「釜」を連想して良いのかな?なんて考えていました。
で、アルバムはここに入っていますが、現地に行ってみて「たぶん大鏡の記述は合っているのだろうな。」と思いました。
ただですね、ずっと引っかかっているのがあまりにも春日大社が鹿島神宮に似すぎていること。
祭神と言い、鹿と言い、三笠山と言い、変な言い方ですがとってつけたような感じがしちゃって。
もちろん、「鹿島は遠いから大和に遷座して、春日明神と名づけた」ので、似ていて当たり前なのですが…。
すっごく臍が曲がっていて申し訳ないんですが、藤原氏が鹿島の地を大切にしないといけないワケがあった、なんて考えられないでしょうかね???
何と言っても創建は紀元前660年、これだけの歴史と伝統がある鹿島神宮ですから別に藤原氏が鹿島出身であった、と記録に明記してもおかしくないと思うんです。
でも、藤原氏は隠した。
そして奈良時代に春日大社を作る。
これは何でなのでしょう?

と、ちょっと話が変わりますがここの本殿は神社にしては珍しく北を向いています。
北を向いていると言うとつい北への備え、と思ってしまいますが本殿はいつから北向なんでしょう??
北を向いているのは本殿だけで摂社や末社はとりどりの方向を向いているんですよね。
(1つずつ摂社、末社の向きを図に書いてくれば良かった…とあとで後悔…。記憶が確かなら北を向いていたのは本殿だけだと思います。)
もらってきたパンフの略年表を見ると天智天皇御代に「造営に初めての使人を派遣これより修理絶えず年別の七月舟を造る」と書いてあるのですが「造営」ってこの時に本殿が造営されたのかな?(意味がわからないので教えて下さい♪)
大化5年には「中臣鎌子、中臣部兎子等総領高向の大夫に請いて下総及び那珂国を割きて神の郡を置く。」と書いていますのでこの地を神格化したのはやはり鎌足であった、と考えても良いのでは?と思います。

と、回りくどく書いていますが、現地に行って一番疑問に思ったのは本当に鎌足の父祖は鹿島の地に根を下ろしていたのでしょうか?
妄想以外のなにものでもないのですが、「鉄」と「製鉄技術」で栄えていた渡来系の技術集団の豪族を乗っ取って摩り替えた、なんてことはないのかなぁ?
話ができすぎていて返って鎌足や藤原氏が自分の父祖を神格化するために「大和に遷座」した、なんてこともあるんじゃないかな?と空想の世界が広がりました。

そんな怪しい思いを抱きながら「鎌足神社」に。
何か「鎌足神社」って如何にもあとづけっぽい胡散臭そうな感じがするよな…なんて先入観があったのですがところがどっこい、ここは写真をご覧頂ければわかるように閑静で、神秘的な場所でした。
鳥居や石灯篭などは如何にもあとづけなのですが、面白いのがこの写真です。
祠がポツンと時間や場所に取り残されたように立っているのですがこの下の中に大切そうに手前側にの石、奥に五輪塔がしまわれていました。
(写真を撮るのが下手でわかりにくくてごめんなさい。)
うーん、蛇ですかぁ…。
日本には古来から蛇信仰がありますよね。
蛇と言えば、三輪山、諏訪大社、八俣大蛇などありますが何が鎌足と結びついてここに蛇を祀っているのでしょう?????
私の足りない知識と想像力では答えは出てきませんが何だか不思議な気がしました。

結局、何もつかめないし感じとることもできなかったので、もう一度香取神宮とセットでチャレンジしたい!と思った今回の日帰り鹿島神宮行きでした。
それでもお団子もおいしかったし♪帰りは利根川に沈む夕日を見られたし♪何よりとーーっても楽しく充実した時間だったので大満足の1日でした♪

【追記】
鹿島神宮の宝物殿に「悪路王」の首と首桶がありました。
こら!悪路王じゃなくてアテルイだ!と心の中でムカっときながら突っ込みました。
一番出口に近い端っこに置かれているのも哀れだし、何と言ってもその憤怒の表情が…。
眉間の傷跡、カッと見開いた目、木製なのに唇の真っ赤な塗料だけが色褪せないで血の色のように見えアテルイの悔しさが伝わってきました。
そう言えば解説に「大陸系の漂着民族とみられるオロチョン族の首領」みたいなことを書いてありましたがこれがまたまた??の疑問符だらけ。
今日の記事の鎌足や藤原氏とは関係ありませんが「オロチョン族とアテルイ」についても調べてみたいです。
しかし鹿島神宮にアテルイの首があるのを知らなかったのでこの日の中で良くも悪くも一番印象に残ったかもしれません。

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