« 乙巳の変前後の素朴な疑問 | トップページ | 高松塚古墳壁画修復作業公開 »

土佐不思議紀行

2月初旬、歴史の手に誘われ土佐に行ってきました。アルバムはここにありますので良かったらご覧下さい。

土佐、そこは不思議な空間でした。
前回行った時は龍馬関連の史跡&博物館しか見なかったのであまり土佐の不思議さを感じることができませんでしたが今回はいろいろな側面が見えました。
☆長宗我部の史跡
土佐と言えば私は「山内」ではなく「長宗我部」。今回は元親、信親のお墓参りと一両具足の鎮魂へ行きました。
元親信親の墓ともみつかりにくい場所にひっそりと佇んでいる感じです。山内氏が入ってからお墓を守り続けることは至難の業だったでしょうね。人々は滅びた長宗我部に対し哀悼の念が大きかったのか、怖れが大きかったのか。
どちらにしてもこうして前支配者のお墓が現存するのは徹底的に相手を叩きのめさない日本人らしさもある?なんて思っていました。
と、言っても実際叩きのめされ、犠牲になったのは上の人達ではなく末端で戦う人達。
石丸神社の一両具足供養の碑には「山内家の入城に抵抗した一領具足273人の首は塩漬けにして大晦日に井伊直政に送られた」と書かれていますが273人の首を想像しただけでも居たたまれない気持ちになりました。
しかし、家康は何故一豊に土佐を与えたのでしょうね?
一豊を見込んだのか、潰してやる気でいたのか、他に適任者がいなかったから消極的に選んだのか。
戦国時代(戦国時代はもう終わっていた、という見方もありますが)と言う特殊性を割り引いても相撲に事寄せ集まったところを鉄砲で皆殺しにするなどやはり虐殺としか言えないと私は思います。
(さすがに種崎浜を散歩する気にはなれませんでした)
いずれにしてもこの事件を契機に一両具足の抵抗は下火になり土佐の地はたくさんの人が流した血の上に安定していく、、が、力で封じたものはいつかはまた新たなるエネルギーとなり力となる。この一両具足の大きな犠牲が土佐の人々のDNAに継がれ、明治維新の原動力になったことを思うと本当に感慨深いです。偶然の積み重ねが歴史を作るのではなくどんな出来事にも理由や遠因がある必然が作るのかな。
そして、長宗我部と言えば♪始祖は秦氏ですが元親のお墓の隣には始祖を祀った「秦神社」があります。
ここの紋、オリジナルサイズでご覧頂くとわかりやすいかと思いますが片喰なんですよね。
うーん、、、歴史読本の先代旧事本紀特集に載っている物部の紋と似ている気もするし……。もし、物部と秦がつながるなら面白いですよね。平安京のスポンサーとして藤原氏を動かしたのではないか?と思える秦氏と、一見滅びたようでも影響力は持ち続けたのでは?と推測できる物部氏はつながっているのかいないのか。
でも、長宗我部の紋が七つ酢漿草なので秦神社の紋が片喰でも不思議ないのですが、そしたら秦神社の方があとに建立したのかな?ならどうして同じ紋を使わなかったんだろ??
紋に無知なので秦神社の紋が片喰であることに何か意味があるのか、たいしたことではないのか全然わかりません。ご存知の方、ぜひコメント下さいね。

☆物部村の神社
1日目に鯨のすき焼きと鰹のたたきをおいしく頂いて2日目は物部村へ。
いざなぎ流を伝える場所で陰陽道に興味がある人は訪ねたい場所ですよね。
ここで興味をひかれたのが「小松神社」
道路の脇に「小松神社」と書かれた看板だけがたっているんです。
神社はどこにあるのか、探しながら降りていくとこんな道が続き、着いたのがここです。
「小松神社」って、名前が名前だけに平家の落人が重盛を祀ったのか?なーんて思いましたが縁起を読むとどうやら関係なかったみたい。
記帳する場所があってノートを見ていたら坂東眞砂子さんの名前を発見♪取材で訪れたのでしょうかね。あと神社名のせいか記帳している名は圧倒的に小松姓が多かったでした。全国の小松さんが訪れているのか?と思いきや住所は高知県とか香美郡とか表記が多いんです。って、ことはこの近辺の方??帰ってネットで調べてみたらどうやら小松姓が多いみたいですね。小松姓と小松神社、何か関係あるのかな?
そして物部村にはともかく神社が多い。その昔は集落ごとに神社があったのが、集落がさびれてなくなってしまい神社だけ残ったのかなぁ?
ただ、香美→「かみ」→神?で、神のおわす村が物部村だったらこれは面白くありません??
と、結局次々と謎が湧き出て収拾がつかないまま土佐旅行を終えた私でした。

PS もうひとつ忘れてました。この写真と、この写真 八咫烏でしょうか?カラスでしょうか?
3本足だったら八咫烏ですがよくわからなかったんですよね…。もし、八咫烏としたら何か意味があるのでしょうか?
神武東征?でも熊野から宇陀ですよね??ニギハヤヒが関係するのかな???ニギハヤヒと言えば物部ですよね????何故土佐に?
考えても私のあさーい知識では何もわからないのでご存知の方、ぜひメールでもコメントでも、webclapでも教えて下さい。

←何故「クエリ送信」になるのか不明ですが(;´▽`A``「webclap」としての機能は使えますのでもし、ご利用の方がいらっしゃいましたらクリックして下さいませsad

|

« 乙巳の変前後の素朴な疑問 | トップページ | 高松塚古墳壁画修復作業公開 »

歴史話いろいろ」カテゴリの記事

コメント

(人><。)キリさん、留守で返信が遅れてすみませんwobbly

「吉野の暗闘」とはまた興味がわくタイトルで♪
さっそく読んでみます。

おっしゃるとおり、いざなぎと物部がつながるって面白いですよね。
それに秦までつながるかもしれないし。
今度は神事をやっている時に訪れたいものです。

投稿: jasmintea | 2009/03/22 17:04

こんにちは。

お久しぶりです。お元気ですか。
高田さんの新刊「カンナ 吉野の暗闘」(講談社ノベルス)が3月の頭に出ましたね。
チェック済みでしょうか。
吉野の桜と女人禁制はなるほどという理論でした。
本題に入ってくれないのはいつものことですが。

そういえば、陰陽道の末裔のひとつが物部村のいざなぎ流ですが、いざなぎと物部がつながるのが面白いですね。

投稿: キリ | 2009/03/20 15:57

凛太郎さん、いつもいろいろありがとうございます♪

秦氏は圧力団体のひとつですか。私の知人で同じようなことを考えていた人がいます。
飛鳥時代から奈良時代を経て平安時代。間の奈良時代の変化がその後の日本を決めたと言うか。
最近藤原氏について実はそれほどの力を持っていたのだろうか?と考えてしまいます。あくまでも歴史の表の顔?なーんてちょっと考えすぎかなぁ。

家康、一豊と肥後だったら?のお話は面白いですね。さすが歴史の達人凛太郎さんらしい視点です。
もし、一豊の強引な手法がなかったら土佐の明治維新はどうだったかな?なんて飛行機の中で考えていました。

物部についての考察も独特ですね。
たとえば鉄、たとえば石、たとえば宮造りなど技術をもった集団が奈良時代も平安時代も重要な役割を担ったような。でもその人達の地位は決して高くはなかった……
何か地位の高くなかった技術集団の指導者が物部を形成した?なんておぼろげに、何の根拠もなく考えています。ちょっと凛太郎さんの考えとズレていますか????
物部つながりで次回は万くんを書こうと思っています。
うまくまとまるかどうかが問題だぁぁ

PS 今日歴史街道の家紋特集を見つけ買いましたが期待ほどではありませんでした……残念ですが島津義弘の特集で楽しむとします♪

投稿: jasmintea | 2009/02/24 21:03

充実した旅行だったようで何よりでした。
いやぁ難しい推論をなさっていますね。僕は秦氏はやはり圧力団体のひとつではなかっただろうかと思っていますが(そうでないと奈良時代の藤原氏の憑かれ方が理解しにくい)、平安時代に拡散してしまうことについては様々な理由を考えてしまいます。このあたり、面白いですね。キリがありませんが。
家康は山内氏の土佐移封について「え、土佐は20万石しか無かったのか、そりゃ悪かったな」と言ったという伝承がありましたねー。一豊にある程度の評価はあったこともここから伺えますし、また家康の土佐に対する知識不足も読み取れます。同様の頑固で理屈っぽい気質を持つ肥後は、細川氏が清正を徹底的に立てることによって乗り切っています。時代は違いますが、一豊がもしも肥後移封であればやはり強引な方法を採ったのか…器量というものは大切ですね。適材適所も重要です。肥後もっこすといごっそうとを比べれば、決してもっこすの方が御しやすいとも思えないのですが。
話が飛躍しますが、僕は最近「物部氏」というのは後々一般名称化したんじゃないかな、ともぼんやり思っています。そっち側の系列にいた人はみんな物部氏の末裔を名乗ったのかなと。支配者が皆源平藤橘になるように。家紋のことは全然分かりませんけど(汗)。

投稿: 凛太郎 | 2009/02/23 22:24

キリさん、コメントありがとうございますo(_ _)o
どうも最近わからないのですが、何故藤原氏はそんな大きな力を持てたのでしょう?
スポンサーにしても、搾り取られたにしても、どうして秦氏がおとなしく藤原氏の言うなりになったのか不思議でなりません。
歴史の表には現れない藤原氏の持つ力があった?のでしょうか?

>酢漿草は藤原氏の支配から逃れた秦氏が進行していた印で、力をつけて長宗我部氏となったときに新たな家紋にしたのかもしれませんね。

この見方ってとっても興味深いです。長宗我部は藤原や源氏ではなく何故秦氏の紋なのか?を考えるとうなづけます。

しかし、商売繁盛の神が稲荷って、悲しいですね……
神社は歴史の物言わぬ証人でもある、と最近は思っています。
もっと勉強しないと神社のつぶやきが聞こえませんね。


花粉が飛ぶ季節になりましたがキリさんは大丈夫ですか?
お忙しいことと思いますがくれぐれもご自愛下さいね。

投稿: jasmintea | 2009/02/22 19:32

十二所神社は熊野権現から勧進した神社なので、八咫烏がいてもおかしくはないかと。
秦氏は伏見稲荷を建てて氏神としてしますが、伏見は熊野の熊野牟須美神から来ているとも言われ、全国の稲荷神社は藤があるとも言われています。
ちなみに秦氏は広隆寺を作るために私財を吐きださされたとも言われていて、スポンサーではなく、とれるところから絞り取ったという感じでしょうね。
うちの近所も藤原氏の下に秦氏がいて、製鉄で稼いだお金を藤原氏が絞りとったという資料がたくさんあります。
そのために、稲荷神社は商売繁盛の神なのですよね。
酢漿草は藤原氏の支配から逃れた秦氏が進行していた印で、力をつけて長宗我部氏となったときに新たな家紋にしたのかもしれませんね。

投稿: キリ | 2009/02/22 06:58

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/231570/28273877

この記事へのトラックバック一覧です: 土佐不思議紀行:

« 乙巳の変前後の素朴な疑問 | トップページ | 高松塚古墳壁画修復作業公開 »